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ペルーの織物芸術の歴史

ペルーの織物芸術の歴史は、スペイン人到着以前に栄えた最初の幾つかの文明に遡ります。これらの文明は高水準の芸術的成熟に達し、独自の世界観を具現化していました。素晴らしい作品の色や特徴的なデザインの素晴らしさから、現代の職工は、この歴史的な伝統の直系の相続人といえます。

歴史的な繋がり

「私達の住むこの大陸(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)が世界で唯一つのものかどうか、同じような大陸が他にあるのかという疑問について、古代の人々は考え続けていました。サン・エフレンは、海の向こう側には大陸の楽園があると断言しました。」
アントニオ・デ・レオン・ピネロ 1650年

 

現在のペルーの国土で発展した文化の多様性は、歴史的変化、人口の移動、国家や帝国の建設などに因っています。しかし、これらは豊かな生物学的な層(海岸砂漠地帯、山岳地帯、熱帯雨林地帯)、これらの層の統合性、そして、つまりは天然資源の豊かさや豊富さが影響しているのです。

スペイン人達がこれらの土地の存在を旧大陸に知らしめたとき、作られたイメージは楽園をほのめかすものでした。地球上のどこかに楽園が存在したのであれば、その場所はペルーでした。夢や理想に、ポトシ高山の発見と開発を求め、途方もない富という現実が合わさったのです。実際にペルーは、経済的にスペイン王制に依存して発展してきました。副王の職は最高上位であり、貴族や上級官僚の威信を示すものと考えられていました。

しかし、副王時代を通じての文化的な、そしてつまりは芸術的な発展は、スペイン人の到着以前の強固な文化的伝統の存在なくしてはありえなかったのです。特異性と耽美的な側面は、まさに融合と価値観、芸術的な表現の評価に基づいています。

 

ペルーへの副王の到着と副王領、つまりヌエバ・カスティーリャの建設は、過去との断絶を想定したものではありませんでした。スペイン語が行政上の言語として使われていましたが、インカ帝国ではケチュア語が自由な言語であり続けました。単に時の経過と共に、スペイン語が統合的なコミュニケーションの要素となったのです。それどころか、この土地固有の言語への敬意は今日にいたるまで長く続いています。言語を例に取りましたが、同様のことが過去の文化における他の重要な面でも起こりました。クスコのような都市の変遷はありましたが、その重要さに変わりはありません。他の都市(リマ、アレキーパ、アヤクチョ、トルヒーヨ)が創られましたが、新たな問題の発生に合わせ、インフラを順応させ、インカの通信制度が守られました。

 

陶芸、織物、冶金、木彫などの芸術的な表現に関して重要なことは、新しい図像学的なテーマを基準に順応しただけでした。インカの巨大な土器の壷はヨーロッパの装飾を取り入れ始めますが、形は維持されました。陶芸に関しては、ろくろや釉(うわぐすり)の使用などの革新的な技術の導入があったものの、同様のことが起こりました。金属に関しては、失われた蝋の鋳造物や首飾りの珠、トゥプ或いはブローチの打ち出し細工、完璧な服装などの当時のディテールや質を越えるのは困難です。これらは、シパン王墓にその絶頂期を見ることが出来る考古学的な遺物によって高く評価されてきましたし、貴金属細工の可能性を示す素晴らしい見本となっています。この王墓は考古学者のワルテル・アルバ(Walter Alva)により1987年に発掘されてから僅か15年しか経っていませんし、その価値を見出されたのはもっと最近のことですが、2002年にランバイエケのシパン王墓博物館が開館していることからもその重要性をうかがい知ることが出来ます。

 

織物の分野では、腰に紐を掛けて使う織機による技術的な制限にもかかわらず、その美しさは疑いようも有りません。パラカス文化が発展したのは乾燥した土地であったため、今日でも充分な織物(ラクダ科の動物や綿の糸を使用)が保存されています。保存の最も困難な素材である木を使う職人は、特にレタブロ、浮き彫り、彫刻のベースとなったリュウゼツランのパルプを使った仕事に、新しい知識を携えてヨーロッパからやって来た彫刻家を受け入れました。

 

変化が最も激しい一方で、非常に大きな芸術的文化的可能性を見出したのは、恐らくは信仰の分野でしょう。スペイン人到着以前の異なった社会状況や社会構造は、様々な霊廟についての宗教的な概念を形成し、更には歴史的な場面で神々が強要され、これに順応したことも事実です。しかしながら、常に太陽を中心とする類似した信仰でした。この信仰はインカ帝国の時代に頂点に達します。精神面における征服は偶像崇拝を根絶することを基礎としていましたが、スペイン人到着以前からの宗教に順応する方法が取られました。光線の神であるイリャパは、サンティアゴになり、母なる大地であるパチャママは、先住民の属性を受け入れつつ聖母となりました。十字架に掛けられたキリストは、自然災害から人々を守るタイタチャ・テンブローレスの役割を引き受け、幼子イエスは王子としてインカの服を身にまといました。トレントの宗教会議後、信仰の基礎となった聖体は、聖体の行列と共に当時絶頂期にあった金や銀の光り輝く聖櫃により芸術的な性格を帯びました。人々の想像上の太陽信仰になった聖像は、結局、ペルーの複雑に入り込んだ全ての社会を太陽の文化に変えたのです。 歴史的な区分ではチャビン(Chavín)と呼ばれる時代から18世紀のリマ啓蒙時代まで、キリストとその象徴は幾つもの時代を結び、多様で独自の融合した文化を生み出しました。 

 

古代ペルーの織物芸術

ペルーの編物は、その出来栄えの良さから、同じようなものを他に見出すことは難しいでしょう。パラカス(Paracas)文化やナスカ(Nazca)文化の時代に作られた物には素材の良さも加わり、非常に乾燥した特殊な環境のお陰で、完璧な状態の物が現在まで残っています。

 

身体の保護や住居の快適化、物々交換や奉納物としての使途、そして死者を包むためなど、編物の持つ社会的な役割は非常に重要でした。

 

パラカスマントのある種のものは碁盤目状に装飾が施され、広げた時にだけそれを見ることが出来ます。このマントは、中心部が群青色で多色の淵飾りのついた赤い横縞があります。これは、顔面に化粧を施すか口から蛇の出ているマスクを付けて、主に擬人化された人物を表すものです。頭には王冠や被り物を載せ、半そでのシャツかウンクと呼ばれる長衣、短いスカート、後ろに蛇の形をした動物が出ている帯を締めます。これは全体として幾何学的な図式であり、一見するだけでその全体を想像することが出来ます。また、直角の形のみを作らせた製作者の技術的限界を示すものでもあります。

(ラファエル・ロペス・グスマン著「ペルー、先住民と副王統治時代」カタログより)


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